アジアの平和、父の体験から学んだ事

日中戦争での父の体験談、その後太平洋戦争真っ只中、シンガポール、マレーで挑んだ広大な農園指導についてのエピソード等、父生存中に残してくれた回想の記録について紹介します。私が幼少の頃、父、春太郎は毎日のように長い時間昼寝をするのが習慣でした。ようやく昼寝が終わると火鉢の前にどっかり座り、キセルでゆっくり刻みタバコを吸っていました。それは午後の仕事を始める前のウォームアップのようなものでした。その時私は父の前で、何か話をしてくれとねだりました。にっこりうなずいて、ちょっと考えてから父は話し始めました。父が日中戦争に従軍し中国大陸で体験した戦争の話が特に珍しく、子供の私を興奮させるので、そこから話が進むのですが、次第に話題は父がその後に経験したシンガポールやマレー農場での体験談に移っていました。私には父が何を伝えようとしているのかを感じていました。過酷で悲惨な戦場の話をしたいのではなく、中国大陸の壮大さ、自然、中国の民衆や中国語の面白さ、その後太平洋戦争中にもかかわらず、民間人として出向いたシンガポール、マレーでは人種の違いを越えて現地人たちと生活を共にしたことなどが当時の父にとってわくわくする、夢のような事だったというものでした、
私は同世代の人々と共に戦後の日本で育ち、その間、一貫して、戦争が平和な社会への犯罪であり、このような愚かな行為を二度と繰り返してはならないと教えられ、戦後その姿勢を貫いた日本は、世界平和の実現に邁進、寄与し、結果として、世界でも有数の平和国家と認められるようになりました。日本は、今日、自国が歴史的な反省と自戒の上に立ち、多くの人が、再発に警戒の度を緩めてはならないと繰り返し意見し、これに脅威を与えたり、逆行するような他国の動きがあれば、痛烈に非難し対抗策を議論します。しかし、世界の動向を見渡しますと、政治、経済、民族・人種・宗教的紛争がいまだに絶えず、むしろその数が増加しており、さらに最近では、一方的な他地域や国への侵攻という事態とその脅威が問題となっています。残念ながら、いかにして世界平和を実現するかについては効果的な策はいまだ見いだせず、解決できないままなのです。

ここに私が紹介するお話は、私が幼少の頃父より聞いた話とその後隠居してから父が書き綴ってくれた手記を基に編集した内容の一部です。幼少の頃父から聞いた話はいつも断片的に終わり、それぞれがどのような繋がりを持っているのかを知らないでいました。父が年老いて70歳前後になってから父から興味本位で聞いていた話をまとめて記録しておきたいと思い、父に頼み込みました。それに応じた父は何枚もの白紙に走り書きしてくれました。幸いに父の記憶が衰えておらず、ほぼ正確に鮮明に残っておりましたので、段階的に三部まで順次編集して、最終的に一冊の手記 「棗の夢-回想の記」を仕上げました。
1-日中戦争、2-シンガポールとマレー農園指導、3-農村社会(明治・大正・昭和)の三部を全集としてまとめています。以下はその概要です。(詳細:Amazon e-book 棗の夢 回想の記 全集」参照)

                 日中戦争従軍

日中戦争従軍中、まる4年にわたる戦闘で、体に3発、持っていた雑嚢や水筒などにも8発被弾したそうです。2001年、父春太郎は88歳で亡くなりましたが、火葬場で遺骨に交じって出てきたものは、鉄砲の鉛弾でした。1913年、福知山市大江町の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した一年後の1938年7月、日本軍の召集を受けて揚子江流域の中国戦線に赴きました。福知山百二十聯隊 第二小隊第四分隊長として派遣され、中国安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たったのです。上海より杭州を経て、湖州に至り、ここで4ヶ月警備に就いた後、同年11月、安慶に到着しました。日本軍は、前月10月に武漢地区を占領しており、警備体制に移ったばかりの時期に周囲を取り囲む中国軍が絶えず攻撃をしかけ、日本軍を悩ませていました。最初の戦いでは、月明かりの中、腰までつかりながら水田の中を走っていました。初めて体験する弾の嵐。弾の音がズーズー聞こえ、左右の戦友が倒れました。別の戦いでも猛烈な射撃を受け、そのとき、ある隊員は"穴に頭を入れておれば、尻に弾が当たっても命は助かる"と、必死にその場に穴を掘ったそうです。安慶の駐屯地に到着した時、春太郎は24歳、常に17名の部下を率い、毎日、三度の食事を作り、苦しい時も、楽しい時も、心を合わせて暮らすことになりました。機関銃の応酬でたくさんの血が流れましたが、日中両軍とも多くの兵士は若く、妻子ある人も多かったのです。自身は、内心、いつかは戦場で死ぬと、割合呑気な気持ちでいたのですが、家族を持っていた部下は、なんとしても内地に帰ることを夢見ていたといいます。春太郎の特異なところは、そこを戦場と知りながら、天性の観察力と好奇心を備えていたためか、彼の心はむしろ敵軍との争い以外のところにありました。広大な大陸に感動したり、揚子江流域では乗馬に夢中になりました。駐屯地近くの池に洗濯にやってきた村の婦人たちはとても親切に何日も彼に中国語を教えてくれました。日中戦争の任務を終え一旦帰国した春太郎は、その後、奇妙な縁により、太平洋戦争の最中、マレー農園の指導のためシンガポールに渡ることになるのです。


                 シンガポールとマレー農園指導

春太郎は、1938(昭和13)年7月から1942(昭和17)年5月まで日中戦争に従軍し、まる4年間にわたる軍隊の任務を終えて帰国しました。その後しばらく舞鶴海軍工廠で青年学校の指導をしていましたが、一年ほど勤めた時、知人を通じて、「フィリピンのマニラか、シンガポールの農園に行ってくれないか」という知らせが大阪の石原産業から届きました。それは戦場とは違い、壮大な規模のマレー農園を担当するという、夢のような役目だったのです。
当時は太平洋戦争の最中であり、渡航する30パーセントくらいの船が、米国の潜水艦に沈められているとの噂が流れていましたが、春太郎には戦場の経験があったため、何の不安もありませんでした。
シンガポールはまさに異国の地、見るもの、聞くものが違っていました。春太郎にとってまさにそこは天国、毎日わくわくした気持ちでマレー農園の指導に当たりました。日本軍の占領下とはいえ、現地住民の暖かい心に接し、人種の違いを超えて交流することができました。華僑の青年たち、マレーの住民、インド人、ジャワ・ボルネオ・スマトラなどインドネシアの島々から渡ってきた旅人たちと親密な交流を行ないました。元海賊の親方も春太郎には大変親切で、現地で困ったことが発生するたびに、よく助けてくれました。
春太郎にはおとぎの国に来たように思えたのです。しかし、1945(昭和20)年に入ると、日本の敗戦が色濃くなり、あわただしい情勢となってきました。日本からの食糧の輸送が困難になった軍は、シンガポールの港で訓練する舟艇特攻隊員のため、石原産業の春太郎に食糧の斡旋を頼んできました。同年5月には、南方総司令部から呼び出しがあり、マレーが玉砕した場合を想定し、春太郎に対し、10月までにジャングルの共産本部に入ってもらえないかとの要請が出されました。

             農村社会 - 明治・大正・昭和

本書は父春太郎が生前に書き残した三部作の手記の中から「農村社会 明治・大正・昭和」に関する記述部分を抽出し編集したものです。春太郎が生れ育った農村に関する記述を題材として、当時の農民の苦悩、生き甲斐、慣習などについて、その歴史的経惟を踏まえて記述しています。
江戸時代以来、多くの農民は重い年貢の負担、飢饉、不作などに悩ませられながら、貧しい生活を余儀なくされました。明治・大正・昭和の初期に至るまで、農民は日本の国の経済、軍事を支える戦力でありながら、土地に縛られ、都市からの貨幣経済の流入によって、苦しい生活を強いられてきました。「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言われるように、朝、暗い内から、夜、暗くなるまで働いても、暮らしが楽になることはありませんでした。
そのように苦悩する日常生活の中で、多くの農民はささやかな楽しみ、喜びを見出い出そうとしてた傾向が伺われます。本書では、農村での生活ぶりや文化に関してもかなり多く記述しています。当時の状況を知っておくことは、祖先を理解し、これからの社会に臨む姿勢を省みる参考となり、そしてそこから将来に向かって生きる勇気も生まれるのではないかと思います。
現代社会では、春太郎やその祖先が生きた時代とは比べようもなく変化し、平和で豊かな社会になっています。私たちの祖先の歩んだ時代は忘れがちになってしまいます。日々の生活に追われると、その時代を振り返る余裕も失われてしまいます。今後の日本社会を担う若者たちにとっては、断片的にも当時の状況を知り、それを念頭に置いていることが、今後の思考、行動に役に立つのではないかと思います。

        父から学んだこと、子、孫に伝えたいこと

 戦後の春太郎は、中国について悪く言ったことは一度もなく、むしろ、誉めることがたびたびありました。従軍中、中国大陸の広大さ・壮大さに感動し、戦争中に接した中国の民衆やその言葉にも関心を抱きました。また従軍から帰国後、太平洋戦争中に一民間人としてシンガポール、マレーに渡りましたが、その際も同様でした。春太郎が抱いた他国民に対する気持ちはいつどのように形成されたものなのか?生来身につけていたものなのか、それともその後中国大陸やシンガポール、マレーでの経験によるものなのか、あるいは戦争に従事した者にも共通した部分があるのか?戦後の父の姿しか知らなかった私は、父の手記まとめることによって、より多く父を理解できたのではないかと思います。
 私はこれからのアジアの発展と平和を考えた場合、何よりも、春太郎が感じたように、広い視野に立って、アジアの人々は皆、人間として変わりはなく、一緒にいても心が落ち着くというような心情や考え方が大切だということを理解できました。それが子や孫、子孫に引き継がれること、また他の人々の何らかの参考になることを望みます。


       父の手記 「棗の夢 回想の記」 概要
           第一部 日中戦争従軍 

 日中戦争従軍中、まる4年にわたる戦闘で、体に3発、持っていた雑嚢や水筒などにも8発被弾しました。2001(平成13)年、父春太郎は88歳で亡くなりましたが、火葬場で遺骨に交じって出てきたものは、鉄砲の鉛弾でした。
 1913(大正2)年、大江町(現福知山市)の農家に生まれた春太郎は、日中戦争が勃発した一年後の1938(昭和13)年7月、日本軍の召集を受けて揚子江流域の中国戦線に赴きました。福知山百二十聯隊(中支那派遣軍百十六師団)、第二小隊第四分隊長として派遣され、中国安慶を起点として、まる4年間、日本軍の治安警備の任に当たったのです。
 上海より杭州を経て、湖州に至り、ここで4ヶ月警備に就いた後、同年11月、安慶に到着しました。日本軍は、前月10月に武漢地区を占領しており、警備体制に移ったばかりの時期に周囲を取り囲む中国軍が絶えず攻撃をしかけ、日本軍を悩ませていました。
 最初の戦いでは、月明かりの中、腰までつかりながら水田の中を走っていました。初めて体験する弾の嵐。弾の音がズーズー聞こえ、左右の戦友が倒れました。別の戦いでも猛烈な射撃を受け、そのとき、ある隊員は「穴に頭を入れておれば、尻に弾が当たっても命は助かる」と、必死にその場に穴を掘ったそうです。
 安慶の駐屯地に到着した時、春太郎は24歳、常に17名の部下を率い、毎日、三度の食事を作り、苦しい時も、楽しい時も、心を合わせて暮らすことになりました。機関銃の応酬でたくさんの血が流れましたが、日中両軍とも多くの兵士は若く、妻子ある人も多かったのです。自身は、内心、いつかは戦場で死ぬと、割合呑気な気持ちでいたのですが、家族を持っていた部下は、なんとしても内地に帰ることを夢見ていたといいます。
 春太郎の特異なところは、そこを戦場と知りながら、天性の観察力と好奇心を備えていたためか、彼の心はむしろ敵軍との争い以外のところにありました。広大な大陸に感動したり、揚子江流域では乗馬に夢中になりました。駐屯地近くの池に洗濯にやってきた村の婦人たちはとても親切に何日も彼に中国語を教えて

        第二部 シンガポールとマレー農園指導

 1938(昭和13)年7月から1942(昭和17)年5月までまる4年間の日中戦争従軍の任務を終え一旦帰国した春太郎は、その後知人を通じて、「フィリピンのマニラか、シンガポールの農園に行ってくれないか」という知らせを大阪の石原産業から受けました。それは戦場とは違い、壮大な規模のマレー農園を担当するという、春太郎にとって夢のような役目でした。
 シンガポールはまさに異国の地、見るもの、聞くものが違っていました。春太郎にとってまさにそこは天国、毎日わくわくした気持ちでマレー農園の指導に当たりました。日本軍の占領下とはいえ、現地住民の暖かい心に接し、人種の違いを超えて交流することができました。華僑の青年たち、マレーの住民、インド人、ジャワ・ボルネオ・スマトラなどインドネシアの島々から渡ってきた旅人たちと親密な交流を行ないました。元海賊の親方も春太郎には大変親切で、現地で困ったことが発生するたびに、よく助けてくれました。春太郎にはおとぎの国に来たように思えました。
 1945(昭和20)年に入ると、日本の敗戦が色濃くなり、あわただしい情勢となってきました。日本からの食糧の輸送が困難になった軍は、シンガポールの港で訓練する舟艇特攻隊員のため、石原産業の春太郎に食糧の斡旋を頼んできました。同年5月には、南方総司令部から呼び出しがあり、マレーが玉砕した場合を想定し、春太郎に対し、10月までにジャングルの共産本部に入ってもらえないかとの要請が出されました。

       第三部 農村社会-明治・大正・昭和について
 
 春太郎が生れ育った農村に関する記述を題材として、当時の農民の生活ぶりや文化について、歴史的経惟を踏まえて記述しています。農民は日本の国の経済、軍事を支える戦力でありながら、土地に縛られ、都市からの貨幣経済の流入によって、苦しい生活を強いられてきました。「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言われるように、朝、暗い内から、夜、暗くなるまで働いても、暮らしが楽になることはありませんでした。そのように苦悩する日常生活の中で、多くの農民はささやかな楽しみ、喜びを見出していました。
 現代社会では、春太郎やその祖先が生きた時代とは比べようもなく変化し、平和で豊かな社会になっています。私たちの祖先の歩んだ時代は忘れがちになってしまいます。日々の生活に追われると、その時代を振り返る余裕も失われてしまいます。今後の日本社会を担う若者たちにとっては、断片的にも当時の状況を知り、それを念頭に置いていることが、今後の思考、行動に役に立つのではないかと思います。

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